こんぺいとうな息子と共に・・・

アニメボール こんぺいとうな息子と共に・・・

 僕の息子の名前は「光」。光の中を歩む人になって欲しいとの願いを込めてつけた名前だ。

 今、中学2年生の彼は、いつも笑顔を絶やさない、とっても元気な幼児だった。しゃべり始めが遅かったが、男の子はそういうものだと聞いていたし、活発に動き回るのも元気な証拠と、特に気に留めていなかった。しかし、話し方や行動に疑問を持った母が医師に相談したところ、AD/HD(注意欠陥・多動性障害)との診断が降りた。確かにショックもあったが、いつもにこにこしているこの子のいったいどこに障害があるの?という戸惑いのほうが大きかったように思う。

 当時の僕は、AD/HDという障害名についても全く知らなかった。注意欠陥? 注意力がないってこと? 多動って何? 発達障害? 何もかもが初めて聞く言葉で、頭の中は疑問符ばかり。できる限り情報が欲しいと思ったが、当時は今ほど発達障害に関する書籍も少なく、我が家にはパソコンもなかったので、ネットで調べるということもできないでいた。しかし、少しずつ「発達障害」というものを知っていくにつれ、これはなるべく早いうちに対処していく必要があると感じるようになり、療育に通わせることにした。その当時の息子は、超がつくほどの多動で、振り返るともうそこにはいないというふうだったし、勝ち負けにとことんこだわり、じゃんけんでさえ負けると大泣きをしていた。しかし、療育の先生の指導のおかげで、椅子に座って待つということができるようにもなり、ゲームなどで負けても、笑って「負けちゃったぁ」と言えるようになった。また感覚過敏のせいか、クレヨンになかなか触れることができなかったが、それもクリアしたりして、短い期間にものすごく成長することができ、それは親としても大きな喜びだった。

 光は、赤ちゃんの喃語とは違う、何とも形容し難い不思議な言葉を話すことが多かったが、主治医の先生はそれを「宇宙語」と言い、僕たち家族は、愛情を込めて「ひいちゃん語」と呼んでいた。摩訶不思議な言葉で、親でさえよくわからず、適当に「うんうん」と相槌を打つことが多かった。

 そんなある日のこと。僕は2階で自分の用事をしていた。すると息子が紙やはさみを持ってきて、何かを作ってと言ってきた。しかし相変わらずのひいちゃん語。なかなか言いたいことが伝わってこない・・・。でも僕は早く自分の用事を済ませたい。とうとう僕のほうがいらいらしてきてしまった。それでも一応彼が望んでいたらしいものができたので、「これでいいだろ」と、半ばつき放すように渡した。すると彼はにっこり笑って、こう言ったのだ。

「お父さん、ありがとう」

 これには参った・・・。本当に参った・・・。
しまったぁとすぐに後悔した。なぜきちんと話を聴けなかったのだろう・・・。なぜもっとしっかり向き合ってやらなかったのだろう・・・。光には光の言葉があるのに・・・。言いたいことが伝えられなくて困っているのは、光のほうかもしれないのに・・・。その日の夜はそういう自責の念が次々と浮かび、涙があふれ、なかなか眠れなかった。何かの形で外に吐き出したいという思いにかられ、息子に手紙を書くことにした。次々と浮かんでくる言葉を文章にすることによって、少しは気持ちが収まったが、この出来事は今でも大きな「悔い」としてしっかりと残っている。

 発達障害の大きな特徴のひとつとして、得意なことと苦手なことの差が極端に大きいということが挙げられる。光の場合、耳で聞いて行動するよりも、目から得た情報で行動したり、記憶することが得意だ。また、運動は苦手だが、閃きや直観力に優れている。でもそれでいいと思っている。その凸凹があってこそ光らしさだし、彼の良さであり、個性なのだ。

 僕は「発達障害はこんぺいとうのようなもの」と感じている。色も様々。形も凸凹。でもそれがこんぺいとうの魅力だし、だからこそ、多くの人に永く愛され続けているのだと思う。

 思い返せば、保育園でのお散歩の時、多動な息子の手をしっかり握っていてくださった先生。小学校の時、踏切の真ん中で座り込んでいた息子を家まで送り届けてくださった近所の方、道路を渡れないで困っていたところを助けてくれたクラスメイト・・・。多くの方々に支えられながらここまでこれた。

 6歳半で高機能自閉症とも診断された光は14歳になった。大きくなったその背中に、たくましささえ感じている。

 親としての僕の願いはシンプルだ。発達障害があっても、この子たちが暮らしやすく、親が安心してこの世を去れる社会になってほしい。実現にはかなり年月を要するだろうが、それを信じ、笑顔で歩んで行きたい。こんぺいとうな息子と共に・・・。


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